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神と悪魔、天と鬼の関係

 まず「神魔(しんま・symma)」という言葉について解説するには、一般的に対となりうる「神と悪魔」「天と鬼」などの比較神話学の視点で考察していくことから始めていきましょう。

 

●キリスト教の「神と悪魔」を分析して統合神話学を知る

 

悪魔とは?

 キリスト教などの一神教において、神は世界の創造神かつ最高神の存在です。それは、人を支配する絶対神である一つの超存在(唯一神)であり、また悪魔というものは、その唯一神に敵対する超存在と位置付けられます。人がその唯一神のものであるために、神の敵役として任されてる悪魔というものにおかされている、という考え方もできます。あくまでこれは、キリスト教の考えではなく、統合神話学的な思考に基づくとそうなります、というものです。 悪魔とは基本的には天使(唯一神配下の超存在)が神の意に反し抗うようになり、それを神は「堕落」とみなして「堕天使」の烙印を押すという話もあります。

 しかし、原始キリスト教時からもですが、時代につれてそればかりではない悪魔が続々と存在していきます。大きく分けて2種類です。

 1つ目は、他の神話・宗教などの他世界観の悪霊や悪神、精霊や神だった「悪魔」です。

 この世界(キリスト教など)においては彼らを悪魔として持っきた、ということです。たとえば、もともと悪なる存在や人から畏れられてきた古来からあるアニミズム的な超存在がその対象です。比較的うまれてから歴史の新しい神「唯一神」からみて、それらは昔から人間を脅かしたり惑わしたりする存在だったり野蛮だったりとするということもあるため、唯一神として同等の存在として認めないのは当然であり、「神の理想に背くもの」として悪魔として、人間に害をなすものと認識させたのでしょう。

 2つ目は、異宗教や不都合な民族の除去・自宗教普及を目的とした人類迫害・政治的支配のための「悪魔」です。

 別の神を「悪魔」と烙印を押すことで、その地の資源などをわがものとすることや征服・服従させることができます。その民族・国家で信仰の的である超存在(精霊・神)を悪魔として取り込むことにより、自宗教信者に、相手の宗教が「悪」という固定概念を宿らせ、自分の信じる神が優れていることを確信させる効果や、相手民族・宗教の弱体化、文明や国家の破壊の効果もあり、政治や侵略活動などの人間の都合に有力な手法にもなります。

 

ルシファーとサタン

 つぎに 魔王と呼ばれている超存在についてみてみましょう。

 ルシファーは天使ルシフェルだった時期があるので「堕天使」の分類で間違いないでしょう。しかし、ルシファーと同一視されるという所説をもつサタンは、アラビア系伝承の悪魔・精霊の王アル・シャイターンが基になっていると考えられています。

 つまり統合神話学では、サタンという存在は、「堕天使」とは分類することは不十分であり由緒ある「悪魔」と言えます。このような視点でみると、ルシファーとサタンを同一視するという視点は同じキリスト教内の視野に過ぎず、統合神話学の視点では、そうではないということがわかります。結果、統合神話学の視点でみれば、彼らを同一視することは難しく、過去のルーツやキャラクター性(個性)をそれぞれ持っていることが言えます。

 

神でもある悪魔

 蝿の魔王とされているベルゼブブや魔界の王の一人とされソロモンの悪魔にも数えられるアスタロトは、オリエント神話群のバール・ゼブル(偉大な王、最高神)とその妻アスタルテ(≒アシュタルテ、アシュトレトなど、月・性の女神)でもありました。このことから、もともとは神であった「悪魔」と分類できます。これは、他の神話宗教を衰退・差別させるための悪魔化である可能性も考えられます。

 

  つまり、「悪魔」と一口でいってはいるものの、実は元天使の「堕天使」という分類の悪魔とは別に、別の神話の精霊や怪物だったり、よい神だったりする「悪魔」もいるということです。

 

悪魔崇拝

 一方、それとは逆に、悪魔が神としての力を得ることもあります。それが近代魔術や秘密結社など、深くオカルトと関わる悪魔崇拝という言葉で表現される概念です。

 先程言ったように、もともと神だった「悪魔」もいます。悪魔崇拝の「悪魔」という言い方はあくまでキリスト教などの目線で「悪魔」といっているだけです。ですが、その目線によって、悪魔を信仰しているという負の感覚が多くあるようになってしまっています。確かに異様な宗教・信仰であったり不思議に感じる崇拝ではあるが、悪魔崇拝などの中にも、完全に悪なる内容の宗教とは限らないものもあるでしょう。悪魔を信仰対象にすることで、力(支持力)を失い悪魔と扱われることになった元神も、再び神として力(支持力)をえて、存在を確立することができる、という考え方が、統合神話学になります。

 もともと悪魔とあつかわれても、もしかすると、今になって「神」としての力を持つこともあるかもしれませんね。そこがまた、悪魔崇拝の面白い点でもあります。

 崇拝や思想が異なれば、その超存在の価値や能力、姿も変化することも統合神話学として忘れたくはない前提知識になります。 

 

このような話はキリスト教の視点だけの話ではもちろんありません。

 以下、具体的なイメージ例です。また、「悪」が「善」とされているものへ変わっていることもあります。

・元は日本・中国における川の神が、存在が弱体化・崇拝されなくなり妖怪(河童など)になる。

・インドにおける神が、仏教では下級超存在「天部」(ヒエラルキー:如来>菩薩>明王>天部>阿羅漢と高僧)となる。

・ インドにおける川と鰐の神クベーラが、日本の仏教における四天王の多聞天(七福神の毘沙門天)になる

・インドにおける雷神インドラが、仏教の帝釈天になる。

・インドにおける悪鬼(鬼神)アスラが、仏教においては守護神として八部衆の一員になっている。

 

 

●まとめ

 

 このように、一般的に「神」と考えられる超存在と「魔」と考えられる超存在は、互いに関係し合っています。そして、常にどちらにも変化する可能性をもっています。また、人さえも「神」や「魔」になることもあり、人は超存在になり得る、という考えもあります。「神」と「魔」だけでなく「人」も深く関係しているのです。

 

 これらの理由をもって、統合神話学では、善悪、姿、地位の変化に関係なく、「超存在」を総称していく名称として、「神魔」とという言葉で表していきます。