アクセスカウンター

哲学と神話

超人(ニーチェ)からの思考

 「永劫回帰」とは、歴史・時間の段階の考え方の一つ。キリスト教やヘーゲルは目的に向かうような一方通行の歴史進行を考えたが、ニーチェは、歴史は進歩・前進もまた戻り円環運動する時間の中での変化に過ぎないと「永劫回帰」を主張した。

 この「永劫回帰」を受け入れることを「運命愛」という。「これが生きるというものか。ならばも一度」という代表的な言葉も残している。

 

 「超人」とは、その「運命愛」をもち、且つ、既存価値・概念の枠を超えた新価値を自ら創る人のことをいう。超人こそ真の意味の自由を手にした存在と考えられている。しかし、「超人」はその世界ではあまりにも異質で万人に理解されにくく、結果的に良いか悪いかは別にして、既存概念世界(ニヒリズム世界)に風穴を空ける者である。また、イエス・キリストも超人の一人とされている。

 ニーチェは、発展したキリスト教という宗教自体は否定的であるにも関わらず、イエス本人は否定していない。「超人」という存在は、偉人としても、過激派の先導者としてもなりうる存在である。結果がどちらになろうとも、最初は必ず「反社会的でかつ社会に影響させる存在」となることには変わりないのかもしれない。

 

  「超人」は一種の理想人ではあるともしている。しかし、人類全員が「超人」になれば共通価値がみいだしにくくなり、ある意味で人間として-の社会形成が崩壊する恐れもある。

 つまり、理想人(超人)が数人しか存在しないことこそが人間の理想と考えられる。

 このことに関して、多少の皮肉さを感じざるを得ないが、そこがまた興味深い。「運命愛」を全員持つことが真によいことではなく、既存価値に沿ってない新価値を基本的にはつくるれない人間が多い方がよい。…というものが人類の理想なのかもしれない。

哲学の本質と神話

 哲学をただ考えることの一言でまとめず言うなら、「人類の存在に対する肯定的な思考」と「人類の存在に対する否定的な構え」の2つでできていると考えられる。「肯定的思考」とは好奇心のある積極的な思考(主体的な観念構成手法)のことである。また、「否定的構え」とは冷酷な消極的な捉え方(客観的な観念基礎概念)のことである。

 つまり、主観・客観、肯定・否定の概念の調和作業が、哲学する為のツールなのだろう。 このバランスを間違えると哲学にならない。人類の存在に対する肯定的思考だけでは純粋な学習・学問などとほぼ変わらなく、哲学といえる程の深みがでない。否定的構えだけでも、それはただ鬱になるだけで、哲学としての充実はない。

 哲学していくということは、人類を向き合いながらも鬱状態のように悩む続けるものなのかもしれない。 そして、哲学はどこの文学にも混じっており、神話にもこれが混じっていると思う。

 

 神話は基本、人類存在に対する「肯定的的思考≧否定的構え」が普通であるが、クトゥルフ神話は、「人類の肯定<否定」の割合で成立している。

 神話を総合的に考えると、人類の「肯定⋚否定」の哲学形成で成立することになるだろう。神魔(人を超えた存在)が存在すること自体が人類を少なからず否定的に捉える部分があるとした哲学の象徴だ。 つまり神話において「人類の存在に対する否定的構えが欠かせない」のである。この人類の否定的構えでより見出した人の弱み・欠点等を補う存在こそが「神魔」であるから欠かせない。人ができないこと・わからないことを神・精霊や悪魔・鬼等に説明するからである。